ポリタス

  • 論点
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なぜ「沖縄人の本音」は見えづらいのか

  • 熊本博之 (明星大学人文学部准教授)
  • 2015年6月29日

辺野古をめぐる思惑

つい先日のことである。早稲田大学グローバルエデュケーションセンターが開講している「21世紀世界における戦争と平和」というオムニバスの講座で「基地が辺野古にもたらしたもの」と題した講義を行ったときのことだ。講義が終わった後、1人の学生が私に近づいてきてこう質問した。「首都大学東京の木村草太先生の議論についてどのようにお考えですか。私は住民投票をやって沖縄の意思が明確に示されれば、流れが変わるのではないかと思うのですが」。

ポリタスにも寄稿している憲法学者の木村草太氏は、辺野古に普天間代替施設という名の新しい基地を建設するためには、憲法95条に基づいて住民投票をもう一度名護市で行う必要があると主張している(『沖縄タイムス』2015年2月1日付朝刊)。件の学生は、この主張について質問してきたのである。


Photo by 初沢亜利

私は、こんな情報まで知っている熱心な学生がいることに驚きつつ、でも「あまり賛成はできない」とこたえた。政府は沖縄の民意にこたえるつもりがないからだ。2010年1月の名護市長選挙で、辺野古移設反対を公約に掲げた稲嶺進氏が市長に当選して以来、辺野古が争点となった選挙ではすべて辺野古移設反対の民意が示されてきたにもかかわらず、現在も移設作業は止まることなく進められている。現状を見る限り、そのように判断せざるを得ない。


Photo by 初沢亜利

そもそも日本政府は、米軍基地に関する事項についての決定権をもっていない。そのことは、県外移設をマニフェストに掲げて政権交代を実現した民主党が、最後には辺野古に戻らざるを得なかったことからも明らかだ。

しかも安保法制の議論を見れば明らかなように、現政権は憲法を尊重することすら不要だと思っているのである。そんなところで憲法に基づいた住民投票を行ったとしても、ほとんど現実的な力は持たないだろう。

日本人の多くが、結局は沖縄に米軍基地があってほしいと思っている

辺野古移設の今後の見通しが厳しいと言わざるを得ないのは、まさにこの政府の態度にある。そしてこのような態度を政府がとっているにもかかわらず、本土で現政権への批判がそれほど盛り上がっているとはいえない。それは、日本人の多くが、結局は沖縄に米軍基地があってほしいと思っているからだ。


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「近くにあってほしくない」施設

米軍基地はいうまでもなく軍事施設である。そして軍事には、自分たちを守るためには他者の命を奪ってもかまわないという前提が共有されている。この軍事の特徴を林公則は「生の破壊」と名づけた(『軍事環境問題の政治経済学』日本経済評論社、2011年)。この「生の破壊」という絶対的な加害性を特徴にもつ軍事の暴力性は、平時においても発揮される。訓練による事故や騒音、基地使用によって発生する汚染、住民に対する暴行などがそれにあたる。しかも軍事は、「敵を倒す」という目的の実現にむけて徹底的に合理化されているため、その目的以外のことに対する配慮はほとんどなされない軍事施設はこのような特徴をもっているため、排除型・押しつけ型の暴力であるNIMBY(Not in my backyard)意識を引き起こしやすい。つまり、「近くにあってほしくない」施設なのだ。


Photo by 熊本博之

しかも、軍事施設によって提供される「国防サービス」は純公共財である。純公共財とは「消費の非排除性」と「消費の非競合性」をそなえた公共財のことだ。国防サービスの受給者は国民全体であるためその利益を諸個人に分割することができない(消費の非排除性)。しかも国防サービスの受給者が増えても追加的な費用はほとんど伴わない(消費の非競合性)。このような性質をもっているため、国防サービスを提供する軍事施設は国内のどこかにあればよいということになる。これもまたNIMBYを引き起こしやすい。近くになくてもサービスの恩恵を受けることができるからだ。

本土に住む日本人の多くは、沖縄に米軍基地があってくれたほうが都合がいい

つまるところ、本土に住む日本人の多くは、沖縄に米軍基地があってくれたほうが都合がいいのである。その都合のよさを取りつくろうために、中国の脅威を引き合いに出して沖縄の国防上の重要性を強調したり、沖縄経済の基地依存的状況に言及したりする。沖縄に米軍基地があることの正当性を示し、沖縄の人たちも基地を必要としているのだといっておけば、自分が米軍基地の負担を受け入れたくない理由を語らなくて済むのだから。


Photo by 初沢亜利

「中国の脅威」という言説の根深さ

ただ、軍事基地の必要性が中国の脅威とともに語られる傾向については、注意する必要がある。中国軍が日本近海で行っている軍事行動は、多くの日本人に不安を与えている。それだけではない。日常生活を送るなかで、中国の存在感は日に日に増している。少なくとも東京では、中国系の苗字が書かれた名札を胸につけている牛丼屋やコンビニの店員を毎日のように見かける。テレビの情報番組は中国人観光客の「爆買い」を流し続ける。そうやって身近なところで中国の存在を感じることが増えるにつれ、「なんとなく中国が怖い」という感覚に陥ってしまう心理には、かなり根深いものがある。その感覚が、「沖縄から米軍基地がなくなると不安だ」という空気をつくりあげている。


Photo by Jacob EhnmarkCC BY 2.0

このような空気のなかで、沖縄から発せられる「基地NO」の声を、「日本」の安全を脅かすものと受け取る人たちが出てきている。ネット上で右翼的な発言を繰り返すネット右翼――いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちである。しかも彼らはもはやネット上だけの存在ではない。

たとえば「沖縄対策本部」という団体がある。那覇出身の仲村覚氏を代表におくこの組織は、

現在の沖縄問題は、中国共産党との間接戦争であり、祖国防衛の沖縄決戦といえます。この戦争に勝利し、沖縄を左翼から取り返すことなく、沖縄を守ることも日本を守ることも出来ません

設立趣旨より)

と主張する。中国が沖縄を、ひいては日本を共産化するのを阻止するために、中国共産党の手先となって革命をおこそうとしている左翼を沖縄から追い出せと訴えているのである。そして定期的にセミナーを開催し、電子書籍を出版するなど、積極的な活動を展開している。


Photo by 初沢亜利

沖縄で顕在化する「アンチ反基地運動」

一方、沖縄で顕在化しているのは、米兵への感謝を示すA氏らの活動である。A氏らは、基地反対派によって普天間基地のフェンスに張りめぐらされた「NO BASE」などとかたどったビニールテープをはがす「フェンスクリーンプロジェクト」や、普天間基地に通ってくる米兵に対して“Thank you, U. S. Forces, for being in Okinawa(米軍のみなさま、沖縄にいてくれてありがとう)”と書いた横断幕を掲げながら、笑顔で手を振って挨拶をする「ハートクリーンプロジェクト」などの活動を主催しており、その活動はSNSなどを通して広報されている。A氏が開設しているFacebookには、投稿があるとすぐに「いいね」が集まりはじめ、その数が1000を超えることも珍しくない。


Photo by 熊本博之

A氏らは、沖縄にある米軍基地の存在を積極的に評価する。その根拠としてメンバーのなかには、やはり「中国の脅威」をあげる者がいた。中国の脅威に対抗するために沖縄の防衛力を強化することは、沖縄にしかできない国防への貢献であり、そのことに沖縄は誇りをもつべきだというのである。

だが、A氏らは本当に「中国の脅威」を感じているだけでこうした活動を行っているのだろうか。彼らの目的はそれだけではないと私は考えている。なぜなら、こんな発言があったからだ。

「平和」の文字を我々に返してほしい

誰から返してもらうのか。ほかでもない「反基地運動」からである。つまりアンチ反基地運動という側面が、彼らの活動にはあるということだ。というよりそれこそが本来の目的であるように思える。

A氏は「自分は基地賛成ではないし、反基地運動の人たちの気持ちはわからないわけではない。だが方法には問題がある」という。そして、あらゆる米兵に「マリーン、アウト」と叫ぶ反基地運動の手法はヘイトスピーチであって平和な手法ではない、自分たちの活動のほうがよっぽど平和だと何度も繰り返す。


Photo by 熊本博之

これはもちろんこじつけである。というより、反基地運動への揶揄でしかない。だが、ここからみえてくる反基地運動に対する憎悪ともいうべきものについては無視するわけにはいかない。

では反基地運動の何が、彼らをここまで苛立たせるのだろうか。それは、反基地運動が米軍基地の存在を全否定しているからだ。沖縄には、軍雇用者や軍用地主、あるいは米兵を客とする商店主など、米軍基地から経済的な利得を得ている人たちがいる。彼らは、反基地運動が米軍基地を否定すればするほど、その否定される米軍基地から利益を得ていることを後ろめたく感じ、肩身の狭い思いをすることになる。こうした不満が積み重なっていたところに浮上してきたのが、沖縄へのオスプレイ配備問題だ。


Photo by Times AsiCC BY 2.0

実は、A氏らの活動が顕在化しはじめた時期は、オスプレイの配備に反対する運動が「島ぐるみ」の様相を呈し始めていた2012年10月頃のことであった。それ以前の沖縄では、反基地運動がいかに基地撤去を訴えようとも、保守系の県知事や政治家が基地の存在を容認してくれていた。しかしオスプレイの配備については、保守系の政治家も反対するようになる。墜落する危険性が高いといわれているオスプレイの配備は、到底受け入れられるものではなかったのである。このころから、沖縄全体で基地に反対する機運が高まってくる。そのことを察知したからこそ、このタイミングで「米軍基地歓迎」の声をあげたのだろう。


Photo by 熊本博之

A氏は特殊な存在なのか?

こうしたA氏らの活動は、かなり極端な動きであることは否定できない。だが、極端な存在であるとして捨て置いてしまうのは危険である。現在の反基地運動のあり方に不満を感じているのは、彼らだけではないからだ。

そのことを象徴するエピソードを2つ挙げよう。1つは沖縄国際大学に通う女子大学生に、反基地運動についての意見を聞いたときのことである。彼女は交換留学制度を活用して本土の大学にも1年間通ったことがあるという、極めて意識の高い学生である。その彼女が反基地運動について「米兵にも家族がいるんだし、その家族に対してもシュプレヒコールをあげるのは賛成できない」と語り、そしてさらに、「基地反対ばかりいっていると、沖縄はワガママだと思われてしまい、本土の人から見捨てられそうな気がする」と続けたのである。


Photo by 初沢亜利

基地に反対するということは、もはや自明のことではなくなりつつある

この発言から見えてくるのは、基地に反対の声をあげることは誰かを傷つけることにつながるし、反対ばかりいうのはワガママであって、そんなことばかりしていると本土から自立していないと思われてしまうのではないかという意識である。つまり、基地に反対するということは、もはや自明のことではなくなりつつあるということだ。

もう1つのエピソードは、辺野古青年会のある行動である。こちらは直接目にしたわけではないが、映像としてみたことはある。インターネット上に動画がアップされているからだ(YouTube「沖縄辺野古の平和運動家の実態」)。その行動とは、キャンプ・シュワブのフェンスに貼られている反基地を訴えるポスターやビニールテープ文字をはがす、「フェンスクリーン」活動である。なお動画をアップしたのはA氏だ。

青年会がシュワブゲート前での座り込み運動を否定するような行動をとったのは、運動に対する違和感があるからだ。2015年2月27日、辺野古区長は稲嶺進名護市長に対して「キャンプ・シュワブゲート前構築物等の撤去、違法駐車の取締りについて」と題した要請書を提出した。その理由は、ゲート前の運動によって区民の生活が脅かされ、多数の苦情が寄せられているというものである。要請書に添付されている資料には、区民にとっての生活道路である国道が反対派の人たちの行動によって封鎖されていたため迂回させられたとか、配達のためにシュワブ内に車で入ろうとした区民が「恥ずかしくないのか」と詰め寄られた、などといった区民からの苦情がまとめられている。


Photo by 熊本博之

ゲート前の運動を否定する動きが辺野古区内部から出てきている

これらの事例が事実であるかどうかを確かめる術はない。だが、全くのデタラメということもないだろう。何より重要なのは、こうした事例を示しながら、ゲート前の運動を否定する動きが辺野古区内部から出てきているということである。辺野古の海を守るためになされている運動が、当の辺野古から否定されるという事態が生じているのだ(もっとも辺野古住民のすべてがゲート前運動を否定しているわけではない。実際、3月3日には反対派の辺野古住民が組織する「ヘリ基地建設に反対する区民の会」が「辺野古・大浦湾に新基地つくらせない二見以北住民の会」との連名で、ゲート前テントを撤去しないよう求める要請を名護警察署長宛てに提出している)。

イデオロギーやアイデンティティーよりローカリティーこそ重要だ

彼らには既存の反基地運動に対して違和感を覚えているという共通点がある

沖縄国際大学の女子大学生も、辺野古の青年会も、A氏らのように米軍基地の存在を“積極的に”認めているわけではないだろう。だが、彼らには既存の反基地運動に対して違和感を覚えているという共通点がある。その違和感がアンチ反基地運動の主張を、部分的にではあるが共感させてしまう――そんな沖縄県民を少なからず生み出しているのである。

しかし、そうした人たちの声はなかなか表に出ることはない。なぜならメディアは、際立った活動だけを報道しがちであるからだ。つまり、沖縄で生活する人たちが日常的に抱く感情や、言い交すローカルな文脈が広く伝えられることはないのである。

翁長雄志知事は、沖縄県知事選挙に際して「イデオロギーよりアイデンティティー」と訴えた。たしかに知事がいうように、これまで沖縄は基地を挟んで保守だ、革新だといがみ合ってきた。だが分裂していては沖縄の基地問題は解決できない。だからアイデンティティーに訴えることで保革を超えた「オール沖縄」をつくり出そうとした。そしてそれは実現したように見える。


Photo by 初沢亜利

だが、この「オール沖縄」のなかに含まれないと感じている沖縄県民も確実に存在する。それはA氏たちのように突出した人たちだけではない。沖縄のローカルな文脈のなかに、「オール沖縄」への違和感を抱く人たちが、広く、そして薄く存在している

そこで重要になってくるのが、米軍基地に反対しつつ、米軍基地とともに生きてきた沖縄ならではのローカリティーを汲み取っていくことである。アイデンティティーに依拠する議論は、琉球王国と大和政府との歴史に接続し、琉球独立に行きつく。その主張を否定するわけではないが、本質主義につながるアイデンティティーに基づいた訴えは、それを共有しない者たちを組み込むことができない。それは普遍的な理念に基づくイデオロギーに依拠しても同じである。

沖縄のローカリティーを理解することが、いまなぜ沖縄が「辺野古NO」を訴えているのか理解することにつながる

だがローカリティーに依拠した連帯であれば、多様な人たちを組み入れることができる。沖縄でふつうに生活している人たちの庶民感覚に基づいた訴えは、沖縄以外の地域でふつうに生活している人たちにも伝わるからだ。沖縄のローカルな感覚でいうと、米軍基地はもちろん迷惑な存在であるけれども、その一方で生活のなかに入り込んでしまっており、簡単にいらないとはいえなくなっている。また、中国の脅威もそれなりに感じているし、国防の必要性についてもわかっている。それでも、基地負担がこれ以上増えることはおかしいという、どの地域で生活していたとしても感じるようなものなのである。その感覚を理解することが、いまなぜ沖縄が「辺野古NO」を訴えているのか理解することにつながる。これだけ米軍基地負担が集中している沖縄に、「基地負担の軽減」といいながら、さらに新しい基地負担が押しつけられようとしている理不尽に対して、「それはおかしいでしょ」と感じているローカルな反発が「辺野古NO」なのだ。


Photo by 初沢亜利

だが、本土の人たちが沖縄に対して抱いている「沖縄はすべての米軍基地に反対している」「沖縄は基地がなくなると経済的に困る」という固定イメージが、沖縄ローカルの素朴で率直な訴えを、ローカルの視点から理解することを妨げていることも忘れてはならない。そしてこのイメージを固定させているのは、反基地運動を中心的に取り上げつつ、バランスをとるかのように「基地は必要だ」と語る沖縄県民の声も拾い上げるメディアによる報道と、「沖縄に基地があったほうが都合がいい」と思っている本土の人たちの、自覚のない無関心である。

辺野古移設問題がここまでこじれたいまこそ、沖縄のローカリティを広く汲み取っていくことが重要だ。そしてそれは、アイデンティティーによって作り上げられた「オール沖縄」というふたを、いったん外してみることによってこそ可能になる。沖縄のローカルな文脈において生じている分断を見て見ぬ振りをしたまま「オール沖縄」のふたをかぶせておくだけでは、壺に入っている亀裂はより深まっていくばかりである。壺が割れてしまい、中の水があふれ出してしまう前に、ちゃんと補修しておかなければならない。「覆水盆に返らず」なのだから。


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著者プロフィール

熊本博之
くまもと・ひろゆき

明星大学人文学部准教授

1975年宮崎県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科社会学専攻をでて、現在は明星大学人文学部准教授。著書に『沖縄学入門』(共著、昭和堂)、『米軍基地文化』(共著、新曜社)、『持続と変容の沖縄社会』(共著、ミネルヴァ書房)など。ここにあげた3つの本では、辺野古が1950年代後半にキャンプ・シュワブを受け入れた経緯についても書いてあります。現在の状況と驚くほど似ておりますので読んでいただけると嬉しいです。また最近は、生まれ故郷である宮崎県の観光開発についての研究も進めています。国の政策による影響をうけやすいという点では、沖縄も宮崎もよく似ています。

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