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絶望してるけど投票には行く

  • 能町みね子 (文筆業)
  • 2019年7月20日

おそらくバブル体験組のあたりから、今の20代くらいの年代まで、世代内で政治に興味がある人が多数派だったことはないのではないかと思う。社会に対する怒りやら使命感のようなものを内に秘めつつも、周囲の目を気にしたり、あるいは環境が整っていなかったり、自分の生活で手いっぱいだったり、自分の考えに絶対の自信が持てなかったりして、思いをあらわにすることができない人はたくさんいるだろう。私も、社会や政治に全く関心がないというわけではなかったし、時に不条理なニュースを見て義憤のようなものに駆られることはあったけれど、積極的に現場に関わっていこうと思ったことは一度もなかった。20代の前半は投票にすら行っていない。

怒りだとか、使命感だとか、そういったものの発露を冷笑する空気が世間にはずっと流れている

怒りだとか、使命感だとか、そういったものの発露を冷笑する空気が世間にはずっと流れている。私自身もそれにどっぷりと浸かっていた。いやたぶん今もその残り湯のようなものに少しは浸かっている。

「空気」に逆らうのはそう簡単なものではない。私は、私の両親の世代で学生運動が盛り上がり、闘争だの総括だのと、若者の間で政治周りが異様な熱気だったことがずっと信じられないと思っていたのだが、地方の大学に通っていた私の母に聞くと、母は「つきあいで」学生運動に参加したと言っていた。熱狂の中心はともかくとして、世間全体で見れば学生運動ですら「空気」なのである。


Photo by tomscy2000 (CC BY 2.0)

私は日本に明るい未来を全然見ていない。バブル期を体験していない世代なんてみんなそんなもんだろう。景気が悪いのが当たり前だと思っているので、さらに悪くなることに抵抗する気持ちもなく、重い諦めばかりがある。私より上の世代が世の中をよくすることなんかもうない。消費税は上がって貧乏人の財布が空になる。政権側の人たちは狭量極まりない戦中の家族観を復活させることに必死で、性に寛容で放縦な「伝統的日本文化」など知りもせず、日本語の漢字も読めない偽りの自称保守が大きな顔をしている。少子化は日本だけでの問題ではなく先進国はすべて合計特殊出生率2未満で、どこの国も有効な対策など作れていないわけだし、報告書がどうあろうが報告書を拒絶しようが、老人が続々増える世の中で年金制度が成立するわけがない。今の60代以上は一度景気の良さを体験しているから、根本的に「まあどうにかなる」という気持ちのまま破綻を見る前に安穏と死ぬだろう。国家として落ちるところまで落ちボロボロにならないともう復活などないのではないかとすら思う。この選挙では自民党が勝つと言われているし、この調子でいけば、世の中の貧富の分断、寛容と狭量の分断は一層激しくなるだろう。とはいえ、仮に他の党が勝ったとしても、劇的に世の中が変わることはないと思う。世間の熱狂のあとに待っていた失望、というのを何度か体験しているわけだから、私は政治家全般に対し期待などしていない。


Photo by Nori Norisa (CC BY 2.0)

しかし、私はここまで絶望しきっているくせに、しっかり投票用紙を持って律儀にちまちまと候補者の名前を書き、投函することにしている。なぜか。

それは、一度病気になったためである。以来、絶望しながらも、絶望を加速させる権力者たちに従順になることだけは避けたいと思うようになったのだ。

28歳の時に心臓病が悪化し、ペースメーカーを埋め込んで私は押しも押されもせぬ一級障害者になった。内部障害で見た目には分からないし、幸い今では日常生活には何の支障もないが、入院前後は心臓の機能が低下し、まともに歩くこともできなかった。


Photo by RubyGoes (CC BY 2.0)

いま思えば症状の重い期間は短かったが、退院後、私は払っていなかった年金を慌ててさかのぼって払うことにした。我ながら滑稽だと思った。

私は20代の頃、すでに年金など当てになるわけがないと思って払うのをやめ、それこそ自己責任で、もし長く生きた場合は自分で貯めたカネでどうにかするしかないと思っていた。愚かな私は、それまで漠然と自分が自力で生きていけると思っていて、自分が何らかの障害を負う可能性など考えたこともなかった。しかし、年金を払わなかったら、ある日突然体が不自由になって仕事もできなくなったときに障害年金がもらえず、収入のあてが極端に少なくなることに気づき愕然としたのである。

このとき私は「痛みを伴う改革」的なものが、いちばん立場の弱い者にまずダイレクトに影響するということに気がついた

現状の制度で、年金を払っていないせいで年金がもらえないというのはさすがに自己責任だが、それはさておき、このとき私は「痛みを伴う改革」的なものが、いちばん立場の弱い者にまずダイレクトに影響するということに気がついた。今は無事に仕事もできるので障害年金も受給していないが、私自身が弱者とされる立場になる可能性は常にある。もちろん私の周りの人がそうなる可能性もあるし、現時点ですでに生きていくために何らかの社会制度に大幅に頼らざるをえない人はたくさんいる。国家権力はピンチが訪れると、国家から見て「役に立たない」立場の人を当然まっさきに切り捨てるはずだから、抵抗していかなければ将来的に自分の首を絞めることにもなりかねない。そのための最低限の手段として、弱い立場の人を一層何もできない環境に追い込むような人たちを少しでも落とせるよう、他の候補への投票くらいはしておかないとならない、と考えが変わったのである。つまり、つきつめれば利己的な理由である。死票でも投票することに意味がある、なんて思わない。大まじめに、いつも、権力者を落とそう落とそうと思って投票している。

弱い立場の人を一層何もできない環境に追い込むような人たちを少しでも落とせるよう、他の候補への投票くらいはしておかないとならない

だから、そんなときの投票など消去法である。支持したい政党や候補者などいつもいないので、宗教と一体化した政党、極右・極左政党、与党・自民党(自民党が野党だった場合も)、の順に候補を切り捨てて、残りから選ぶ。別に投票先を特定の野党に定めているわけでもない。

面倒を恐れて無批判に権力に追従していたら、つけこまれて最終的には心も体も殺される

佐々木俊尚は「反権力こそカッコいい」と考える人を小バカにして「反逆クール」と名づけたが、私はまさに「反逆クール」側の人間である。ただ私は、反逆こそクールなどと思っているわけではなく、権力に従順であることこそ愚、と思っているので、その逆を行っているだけである。少なくとも、従順よりも反逆のほうが意志がある。自分には力もないのに、面倒を恐れて無批判に権力に追従していたら、つけこまれて最終的には心も体も殺される、と思う。

著者プロフィール

能町みね子
のうまち・みねこ

文筆業

北海道生まれ。文筆業。

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